めらブログ

国語科の文法教育、作文教育、そのほか教育に関すること。ブログ名をすこし変えました(本名がずっと出るのがはずかしくなって。。。)

日本語学会シンポジウム「日本語学と国語教育学との接点」質問への回答

 10月29日(日)の日本語学会2023年度秋季大会において、シンポジウム「日本語学と国語教育学との接点」に登壇しました。当日ご参加くださったみなさま、他の登壇者のみなさま、運営委員としてご尽力くださったみなさま、本当にありがとうございました。自分の力不足で十分言い尽くせなかったことも多いのですが、本当に貴重な機会になりました。

 

www.jpling.gr.jp

 

 後半のディスカッションの内容については、やんわりとこんな議論がしたいね、ということを登壇者間で打ち合わせはいたのですが、矢澤先生の「きょうの発表で国語教育の人が文法教育やりたい、って説得されると思う?」というのは(わたしの記憶では)打ち合わせになかったです。笑 いや、まったくもって図星なのですが……。歴史研究のジレンマとして、「歴史的にこうだった」ということと「未来をこうしていきたい」のあいだの接続がうまくいかない、というのがあります。わたしとしては「歴史と現在にこういう連なりがある(からこのへんが問題である)」という話にも十分価値があると思うのですが、実際に教育に貢献しようと思ったら、さらにもう一歩が必要ですよね。矢澤先生に「で、どうしたいの??」と発破をかけられて、その話ができたのはよかったです(他力本願)。今後は、後者へのジャンプをもっと積極的に考えていかねばなあ……。

 

 さて、その足がかりになるかはわかりませんが、当日わたし宛にいただいた質疑のうち、お答えできなかったものについて非公式に回答します。公開されることを想定していない方もいらっしゃると思いますので、お名前は伏せたうえで、質問の内容も大幅に要約して示します。またわたしの名前にチェックを入れていただいていたものの、内容的にほかの先生に深く関わると判断したものは回答していません。またこれはわたしの非公式な対応ですので、ほかの登壇者から同様の回答があるとはかぎりません。ご了承ください。

 

(1)「メタ言語意識」の文法教育史上での取り扱いと、今後の方向性は。

 わたしがよく見ている戦前期についていえば、あまり盛んではなかったように思います。古くさかのぼれば明治期から、言語を観察することや、それを通して論理的思考力を育成することの重要性を指摘する論者はいました。橋本進吉も、文法教育の目的を「出来るだけ明瞭で徹底した国文法の知識」を得ることにおきます(『新文典』)。ただこれがどれほど今日の「メタ言語意識」に通ずるものかはわかりません(あまり通じなさそう)。

 それ以降もメタ言語意識についての指摘は一定程度続けられてきましたが、実際の教育方法はうまく定まっていない状態です。これは発表中に述べたように、方法だけの問題ではなく、そもそも目的(文法によってどんな力がつくのか、文法を学ぶことでどんなよさがあるのか)がうまく定まっていないのが問題ではないかと考えています。

 今後の方向性としては、文法を直接的に「書くこと」「読むこと」などの言語活動に生かそうとするもの(実用派)と、メタ言語について思考し説明することを重視するもの(知識派)があると思います。わたしはまず実際のニーズから前者に取り組むべきと考えていますが、後者についても無視するべきではないと思います(このことは発表の中でもふれました)。

 

(2)議論について、「文法教育の課題」と「学校文法の課題」が錯綜しているのでは。

 わたしとしては、つねに「文法教育の課題」について論じたいと思っています。つまり現状の学校文法(橋本文法を基盤においた体系)の課題を指摘するだけではなく、そもそも学校における文法教育がどのような課題をもっているかについて論じたいと思っています(これを発表中は「一般名詞としての学校文法」の課題と述べました)。

 わたしが文法教育史を見るとき注目するのは、その時代にはどのような目的のもと、どのような内容が教えられようとしたのかです。そのうえで、当時のそれらにどのような課題があった(と見なされていたか)を見ます。まずは現代の価値判断をなるべく入れずに、このような「当時の枠組み」を見ようとします。それと同様の方法で「今日の枠組み」を見ると、両者に類同性や相違点が見えます。これによって「今日の枠組み」を相対化し、自明にしている価値観などを明らかにすることをめざします。

 今回の発表でも、学会設立期「当時の枠組み」を(粗いものではありますが)記述しようとしました。そうすると「具体的な目的の不明瞭さ」「言語活動に関する研究の不足」という二つの課題が見出だせました。発表の中で述べたように、これらの課題は、「今日の課題」としても共通していると考えられます。そうだとすれば、これらは学会設立期(機能文法期)から今日まで、両学会が取り組みつつも解決できなかった課題であり、あらためて接点を模索する入り口になるのではないか、というのが発表の主張です。それをもとに、「当時」と「今日」に共通する課題の解決策として、後半に述べたような提案を行いました。

 ただ議論としてはまだ粗いものであるため、本当に類同性があるといえるのか、またわたしの提案が本当にその課題に答えるものになっているかは、また別の検討が必要だとは思います(前述のとおり、「歴史をもとに未来の話をする」ことのむずかしさを感じながら発表していました)。

 

(3)言語事項を「取り立て指導」としてまとめることの弊害は。

 それが新たな暗記の対象となってしまう懸念をぬぐえない点です。仮に橋本文法を取り下げても、別の「文法学」を提示した時点で、「その文法学の習得そのもの」が目標になってしまう懸念があります。わたしとしては、橋本文法か別の体系かという内容の問題ではなく、何のために文法を教えるのかという目的の問題だと考えています。

 他方、まったく「文法学」のない「文法」の指導はありません。理想としては、「読むための文法事項」「書くための文法事項」……などの体系を作り、体系間のコストにも配慮しつつ、全体として示すというものがあります。倉澤栄吉は、文法について学術的な体系だけではなく「文法指導の体系」が必要と述べました。上の提案はこの一つの具体例と考えています。

 

(4)言語活動に関する蓄積はどうすれば増えるか。

 学習者の書いた文章、学習者の読む文章を対象とした言語研究を進めることだと思います。一例をあげると、国語教科書において比喩や対比といったレトリックがどこにどのように出てくるのか、そこで学習者がどのくらいつまづいているのかについて、体系的なデータはありません。もしこれらの事項がよむことのハードルになっているとしたら、現状を知り、なんらかの解決策を考える必要があります。もちろん文章には結束性がありますので、語彙やレトリックをコントロールするだけでなく、その状況モデルも重視すべきです。それでも、教科書の言葉の現状について語る言葉がさらに必要ではないかと考えます。

 

(5)変化する社会や言語と、規範の習得を目指す国語教育との衝突を、どのように回避・折衷できるか。

 規範を「従うべきもの」と見るのではなく、「うまく付き合っていくもの」と見るとよいのではないかと考えています。他の登壇者の発表にも話題に出た「全然」という語でいえば、「『全然よい』といった表現は不適切だから使わない方がよい」というのが「従う」立場です。これに対し「『全然』について、世代間でどういう認識の違いがあるのか」「それを受けて、これから自分はこの表現をどう使っていきたいか」(たとえば、仲間内ではいいが、外の関係では避けたほうがよい表現かもしれない、など)を考えていくのが「うまく付き合っていく」立場です。

 言語には一定の規範がある以上、「なんでもいい」という指導は無責任です。同時に、言語は一定の変化をしていく以上、自らの規範に閉じこもり対話を拒否する言語観も問題です。実社会で生きていくうえでいちばん有効なのは、お互いの規範をすり合わせながら、うまくコミュニケーションをとっていくしなやかさだと思います。このようなしなやかさを育てる指導をすることが、教員の手を離れてからも学習者が豊かな言語生活を送る一助になると思います。

 

(6)文法教育の目的は、多様な子供達が協働して活動する際に、その活動を支えるメタ言語となり得ることにあるか。

 はい、そうです。自分の言語活動を励ましたり、他者との言語活動を豊かにしたりするものになるとよいと思っています。このようなメタ言語意識は、異なる言語の話者に対しても開かれたものになってほしいとも思っています。

 問題なのは、その具体的な内容が見えない、という100年越しの「根の深い課題」にどう答えるか、ということなのですが……このあたりは、みなさまのお知恵もいただけましたら幸いです……。

おすすめブログ紹介

 はてなブログ今週のお題が「おすすめブログ紹介」ということで、id:kimisteva 先生からご紹介いただきました。ありがとうございます! 

kimilab.hateblo.jp

 わたしとしても今後は学会記録などにとどまらず、コンテンツを増やしていければと……笑(やりたいことはあるんですが、なかなか形にできずにいます)


 また、次のバトンもいただきました! はてなブログにかぎらずですが、ご紹介できればと思います。


誰がログ

dlit.hatenadiary.com

 

 言語学をご専門にされているid:dlit 先生のブログです。疑似科学水からの伝言)批判や、『日本語に主語はいらない』批判の記事が有名です。でも個人的にインパクトがあったのはこの記事

 

dlit.hatenadiary.com

 

「学術で遊ぶ」というのを体現してくださっていて、複数の意味でおもしろいです。右も左もわからない院生時代、学校文法に関するブログ記事を見つけて興奮したのはいい思い出。


あすこまっ!

askoma.info

 

 軽井沢風越学園でご活躍されているあすこま先生のブログです。教育やことばに関する読書量に圧倒されます(書評は自分の本を買うときの参考に大いにさせていただいています 笑)。また個人的にはご自身のふりかえりを(反省点も含めて)率直に書かれている記事に励まされています。やはり誠実に仕事をされる先生は、悩んだり落ち込んだりしながら前を向いているんだなと。


 研究者の文面でのコミュニケーションは、まずは論文だと思いますが、論文では書きづらい内容、話題(しかし共有すると確実に役に立つ内容、話題)というのがあります。そういうものを拝見できる意味で、ブログという場は貴重です。微力ながら、ぼくもそのコミュニティに貢献していければいいなと思っています。


 本来は次のバトンも回すべきだと思うのですが、週末になってしまったので、わたしのバトンはここでストップします。ありがとうございました。

新型コロナウイルスの陽性診断を受けました

 結論はタイトルの通りなんですが……症状はすでに落ちつき、若干の咳とたん以外は平時に戻っています。後遺症らしきものも今のところはありません。一部の方には、感染を防ぐためにといって予定を変更していただいたこともあったのに、申しわけない感がすごいです。現状いろいろな仕事がストップしていますが、少しずつ平常運転に戻れればと思っているところです。

 

感染経緯

 家族の陽性が判明したのが6月15日の水曜日(朝までは全員平熱でした)。感染が判明した時点で職場に連絡して、自宅待機開始。その後17日(金)に、自分自身も喉や胸の違和感、および倦怠感を持ち始めました。18日(土)午前に症状が悪化して、病院を受診。抗原検査およびPCR検査を受けました。抗原検査は陰性だったものの、PCR検査で陽性が判明しました。ちょうど大学の講義がない期間(いまの勤務校は4学期制のため、学期の谷間にあたる期間があり、その期間)で、出勤していなかったため、わたし由来の濃厚接触者はいません。

 

主な症状

・咳、たん

・胸の重さ

・発熱(一時39.1度)、寒気★

・頭痛★

・関節痛★

・腸の膨張感★

・下痢

 

 はじめ家族が吐きまくっていたので胃腸炎かな? と思ったんですが、コロナでも胃腸系に来る方が結構いるんですね。知らなかったです。よくいわれる「刃物で刺すようなのどの痛み」「息苦しさ」はほぼありませんでした。

 

 あと個人的に印象深かったのが、「ワクチンの副反応で出た症状が本番でも出た」ということです(あくまで個人的観測範囲)。わたしの場合は上の★部分なのですが、副反応で吐き気が出ていた家族は、本番でもやはりひどい吐き気でした。副反応がひどかった方は特に、本番の感染がないようにお気をつけいただくのをおすすめします……。あとわたしはやはり副反応と同様、やたらお腹が空きまくりました。東京都の食料支援物資は量も十分で本当にありがたかったです(一本満足バーおいちい)。

 

そのほか感想

家庭内感染避けるのマジ無理。2年以上気をつけてたのに、かかるときは一瞬なんだなあ。だれが悪いわけでもないし、仕方ないですが(家族もできる範囲で全員感染対策をしていました)。

 

・逆にいうと、家庭内に感染者が出るまでは自宅にウイルスを持ち込んでいなかったということなので、平時の感染対策(マスク、手洗い、ワクチン等)はかなり有効なのかもしれないと思っています。心のどこかで「もう絶対感染して無症状なだけだよね~w」とナメてましたが、ほんとうに感染したらそれどころではありませんでした。

 

・わたしは高熱が出たのも一晩だけでしたし、軽傷のなかでもかなり軽い部類だと思います。ただそれでも、家族全員が体調不良の時間帯(病人が病人の面倒を見ている状態)は、先行きの見えなさとみじめさが途轍もなかったです。あんな思いはしないに越したことはないです。「弱毒化してるし、一回かかっちゃった方が早いんじゃないの?」ではなく、感染しないような対策を今後もできる限りとるべきだと思います(もちろん同時に、学校生活など自粛のデメリットが大きな場合もありますので、複合的に判断する必要はありますが)。

 

おわりに

 終わった感を出しながらブログを書いていますが、わたしはまだ来週の月曜日まで隔離期間です。体調を見ながら、在宅でできる仕事をしていきたいと思います。関係各位、今しばらくご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします(来月〆切の原稿どうしよ……)(なんて心配できるのも本当に幸せなことです)。

公開講座「『生きて働く』文法とはどのようなものか?」の振り返り

公開講座、ぶじ終わりました

 先日告知した公開講座について、ぶじ完了しました(すこし間が空いてしまいました)。現在は、当日の配信内容に修正を加えたうえで、アーカイブ公開中を行っています。

 

mera85326b.hateblo.jp

 

 当日は、Zoomに70名以上の申し込み、YouTubeLiveは1100回以上の再生をしていただくことができました(のべ回数)。またTwitter上での議論について、Togetterでのまとめも作っていただきました。みなさま本当にありがとうございました。

 

togetter.com

 

 この記事では、当日の話題提起や質疑応答を受けて考えたことを、補足のかたちでまとめておきたいと思います。Liveあるいはアーカイブをご覧になった方も、まだの方も、どちらも読めるように書いたつもりです。

 

(1)「文法的に考える」ことの新たな意味

 今回の講座を実施して考えたのは、文法について考えると、結果的に国語教育全体について考えざるをえなくなるのだということです。

 

 たとえば、質疑の中ではインクルーシブ教育と文法教育に関する議論が出ました。教室には少なからず日本語を母語としない子どもたちがいるが、その子どもたちに対して文法教育はどのような寄与をすることができるのか、というご質問でした。

 

 いまの学校文法が第二言語教育にどのように資するかについて、すぐ答えを出すことは難しいです。しかし西川・青木(2018)によると、日本語を母語としない子どもは、母語とする子どもに対して、服の脱ぎ着に関する「(帽子を)かぶる」や「(靴を)ぬぐ」といった動詞(着脱動詞)の理解が弱いというデータがあります。これは着脱動詞がよく使われる家庭では、日本語ではなくそれぞれの母語を使っているためと考えられます。

 

www.hituzi.co.jp

 

 こういったことを、国語教育の教科書や現場がどれくらい踏まえられているかはわかりません。たとえばある小学校用教科書には、「聞くこと」に関する学習として、「白いぼうしをかぶり、リュックサックをせおっている」という音声をもとに「やまだゆかさん」を探す活動があります。ここでは、「やまだゆかさん」を探す手がかりとして、着脱動詞が使われています。これはおそらく、なるべく学習者の「身近な語彙」を示そうという教材作成者の配慮からです。しかし上記のようなデータを見ると、その配慮が一部の学習者にはかえって裏目に出てしまう場合もあるようです。

 

 また質疑応答のなかでは、大学生と「やさしい日本語」で話そうとした際、うまく自分の表現を「やさしい日本語」に言いかえられず、固まってしまう学生が少なくないという指摘も出ました。

 

www4414uj.sakura.ne.jp

 

 こういった状況をふまえると、今日においては「文法的に考える」ということ自体が、これまでとちがった意味を持つようになってきているのかもしれません。つまり文法を学び、自分たちの言語使用をふりかえること自体が、多様性がありインクルーシブな社会を実現することに寄与していく可能性です。このように今回の公開講座では、「文法を入り口にして、国語教育全体の位置づけを考え直す」ような議論が現われたのが印象的でした*1。この点は自分も大いに目を開かされました。

 

(2)「生きて働く」とはどういうことか?

 講座の内外では、文法が他領域(書くことや読むことなど)の活動と関連する、つまり「生きて働く」というときに、一体どこまでを「生きて働く」とみなすのかについての議論も出ました。

 

 この点について整理するためには(講座のなかではふれられませんでしたが)、茂木(2015)の議論が参考になります。茂木は、文法を含めた知識事項を学ぶ方向性として、次の2つがあると整理します。

 

①「実用派」

「話す」「書く」などの具体的な言語技術に結び付けられることを目指す方向。


②知識派

より高次の「考える」「分析する」能力の育成のために、現代日本語を観察し活用した指導をめざす方向。

 

(茂木2015、pp.61-62より、要約は勘米良)

 

www.asakura.co.jp

 

 今回の公開講座(3番目にご登壇の先生)の実践でいうと、4つ目の「主述の不照応」に関する実践は①実用派にあたります。主述のねじれといった生徒の作文に直接つながる知識を教えようというアプローチだからです。これに対し、3つ目の「品詞論を学び合いで理解する」という実践は②知識派にあたります。「名詞」「動詞」「副詞」といった品詞についてICTを活用しながら分類していくことで、生徒が品詞論(これ自体は作文などには直接つながらないかもしれない議論)について理解することをめざすアプローチだからです*2

 

 ここで問題になるのは、「生きて働く」文法といった際に、①実用派のことだけを考えていくのか、あるいは②知識派のアプローチも含めて考えていくのか、ということです。難しいのは、②だからといって生徒の言語活動につながらないとは言い切れないことです。質疑応答でも出ましたが(アーカイブ動画でいうと1:25:20ごろから)、3人目の登壇者の方は、②知識派のアプローチで行った授業が、結果的に生徒の「読むこと」にも生きてきた例をあげていらっしゃいました(文法学習を行った生徒たちが、中1「大人になれなかった弟たちに……」を読んだ際、「それなのに、飲んでしまいました」の「てしま(う)」に込められたニュアンス(後悔の念)に気づくという例)。このように「文法について考え」た内容自体は転化されなくても、「文法について考え」た経験が「生きて働く」ということは大いにありえます。これは質疑応答の中でも出てきた、特定の領域にとらわれない「汎用的な知識への跳躍」にもつながる議論に思います。

 

 そうだとすれば、この①実用派にあたる内容と、②知識派にあたる内容が自覚されず混在している状態では、指導や学習に支障をきたす可能性があります。どのような文法事項が①実用派あるいは②知識派にあたるのか、そしてそれぞれはどの段階を目標として指導するのかといった観点は、これからの文法のカリキュラムを考えるうえでの目印になる可能性があります*3

 

(3)RSTと文法教育

 講座中に十分ふれきれなかったのが、Googleフォームではご質問をいただいていた、RSTと文法教育の関係についてです。

 

 RST(リーディング・スキル・テスト)とは、「文章の意味内容を理解する」という意味での「読解力」が、いまの子どもたちにどの程度あるのかを測るためのテストです。このテストについては、たとえば次の新井(2018)が話題を呼びました。

 

str.toyokeizai.net

 

 このテストで注目されるのが、「読解力」につながるものとして、「照応」や「係り受け」といった文法の理解が想定されていることです。たとえばRSTでは次のような問題が出ます。

 

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

 

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを次の選択肢のうちから1つ選びなさい。

 

Alexsandraの愛称は(  )である。

 

①Alex ②Alexander ③男性 ④女性

 

(新井2018、p.200)

 

これは述語「(Alexandraの愛称)である」の主語がなにかの理解を問うています。このような問題をRSTは「係り受け」の問題と述べています(正解は①)。筆者は、この問題の正答率が中学生で38%にとどまったことを指して、今日の学習者の「読解力」に警鐘を鳴らしています。

 

 ここで問題になるのは、文法関係を把握する力を「読解力」といってよいのか、「読解力」にはRSTで述べられている以外の力も含まれるのではないかといった点です。前者については「これはあくまで文法の理解力であって、『読解力』ではないのではないか」といった意見がありえます。後者については「『読解』というのは既有知識も総動員したもっと幅の広い営みであり、RSTがそのすべてを射程に入れているわけではないのではないか」といった議論がありえます*4。RSTそのものをどうとらえるかとは別に、このような議論は文法と「読むこと」の関係を考えるうえで不可欠です。ここで即座にこの問題について論じるのは難しいですが、今後の課題(より具体的には、今後公開される公開講座ブックレットへの課題/←と自分へのハードルを上げていく)として考えていきたいと思います*5

 

 なおRSTの問題については、2020年度の『教育科学 国語教育』(明治図書)で、全12回の特集連載「AIに負けない「読解力」を育てる」が組まれています。こちらもご参照ください。

 

www.meijitosho.co.jp


おわりに

 このように今回の公開講座は、コーディネーター本人が学ばされるところの多い、(わたしにとって)とても有意義な時間になりました。ご参加あるいはコメントをくださったみなさま、本当にありがとうございました。くりかえしになりますが、アーカイブ動画は以下のURLで配信中です。6月上旬ごろまでの公開予定ですので、ご関心のある方はお早めにご覧ください。

sites.google.com


 また本日(!)からは、全国大学国語教育学会 第142回東京大会の全体プログラムも開始いたします。こちらは申し込みが必要ですが、魅力的なプログラムが多数予定されています。ぜひこちらもご覧ください。

 

sites.google.com

*1:ある領域について考え始めると、結果として教科あるいは学校教育全体を考えざるをえない、というのはどんな議論でもそうなのかもしれません。ただ文法はとくにほかの領域と関連せず孤立しがちなことが批判されているので、文法でもこういった議論になったことは、個人的にとても印象に残りました。

*2:この品詞論の実践は、ICTを活用した文法授業の実践である点も注目されます。

*3:わたし自身、講座の最中にはこの観点はあまり意識しておらず、むしろ領域ごとの文法体系をつくる必要(そしてそれに伴うカリキュラム編成への難しさの懸念)について述べましたが、現時点では本文に書いたようなアプローチのほうが有効ではないかと考えています。

*4:なおRSTは文法に関することだけを問うているのではなく、「同義反復」「推論」「具体例同定」といった事項も問うています。

*5:RSTについては、講座の中でも絶対にふれたいと思いつつ、ふれきれなかったので、ご指摘いただきありがたいです……。

公開講座「『生きて働く』文法とはどのようなものか?」のお知らせ

 次回の第142回全国大学国語教育学会 東京大会(オンライン)において、「『生きて働く』文法とはどのようなものか?」というテーマの公開講座を実施します。日程は5月14日(土)の14:00~17:00です(学会全体の日程とは異なりますのでご注意ください)。公開講座と銘打っているとおり、学会員でなくても、無料でご参加いただけます。以下、概要と、申し込み方法をお知らせします。

 

sites.google.com

 

 

概要

 今次の学習指導要領で、文法を含めた知識事項が他の領域に「生きて働く」ことが求められるようになりました。しかしこれまでにも、文法を暗記の時間でないようにしよう、「書くこと」や「読むこと」に生きる内容にしよう、という取り組みはくりかえし行われてきました。

 

 そうだとすれば、新しいキーワードが現れたからといって、ことさらにこれまでとの分断を強調するのは得策ではありません。むしろ、これまでの文法教育にはどのような成果があるのか? あるいは、それでも課題として残っていることにどういうことがあるのか? ということをしっかり確認して次の一歩を踏み出した方が、有益な議論になるのではないかと考えています。この公開講座では、登壇者そして参加者のみなさまとの議論を通して、その一歩を踏み出すきっかけを得たいと思っています。

 

登壇者紹介

(1)山室和也先生(国士舘大学

昭和30年以降において、他領域と文法との関連を考えた論者の議論を参考にして、「生きて働く」文法の方向性を模索します。今回はとくに佐伯梅友、永野賢、北原保雄の議論を参照することで、いわゆる学校文法という「普遍」に対し、各論者が独自の内容(特殊)をどのように入れ込もうとしたのか考察します。


(2)勘米良祐太(武蔵野大学

橋本文法が定着した経緯を明らかにするために、明治・大正期の文法教育に対して何を加除しようとしたのかを考察します。明治・大正期においても、他領域に資する文法の重要さは指摘され、目指されていました。それにもかかわらず橋本文法が定着したのはなぜかを考えることで、学校文法について議論するための前提を明らかにします。


(3)三國先生(公立中学校)

ご自身の実践に関する省察を行うことで、具体的な「生きて働く」文法への方向性について考察します。「品詞論における学び合い」「文法を『描く』」など、ご自身の魅力的な実践をご紹介いただきます(文法教育におけるICT活用の実例も含む)。これを通して、文法学習を「生きて働く」ものにするための可能性について考察します。

 

申し込み方法

Zoom、YouTubeLiveのいずれかの参加方法があります。

(1)Zoom

登壇者と直接やりとりができます。以下のGoogleフォームからお申込みください。

forms.gle

 

(2)YouTubeLive

視聴メインになりますが、申し込み不要でご覧いただけます。

www.youtube.com

 

そのほか、学会のtwitterもあります。

 

(3)学会研究部門twitter(随時更新)

twitter.com


おわりに

 先日、登壇者のおふたりと打ち合わせをしたのですが、そのときのお話を伺ってすでにわたしは楽しいので、やってよかったと思っています。←

 

 土日の時間にはなりますが、参加者のみなさまのご質問・ご意見も伺いながら、今後の文法・知識事項の指導について考えていければと思っております。ぜひみなさまご参加ください!

『国語教育史研究』第22号に論文が掲載されました

 タイトルのとおり、「知識事項と他領域との関連を問い直すー2010年代の文法教育に関する文献レビューを通してー」と題した拙稿が掲載されました(Cinii等には未アップ)。

 

 今次の学習指導要領で「知識及び技能」が「思考力、判断力、表現力等」に「生きて働く」ことが求められるようになりました。本稿ではこのことを受けて、ひとつ前の学習指導要領の時期の研究において、「生きて働く」文法につながるものにどのようなものがあるかをレビューしたものです。

 

 いちばんやりたかったのは、新しいキーワードが現れることで右往左往するのではなく、これまでの実践・研究からどんなことが学べるのか、あるいはどんな課題が析出できるのかを、連続的な視点で考えることでした(うまくいっているかはわかりませんが……)。 この内容も受けて、来月には全国大学国語教育学会で、文法教育に関するワークショップも行います。その内容についても、後日またお知らせしたいと思います。

 

 拙稿について、ご覧になりたい方は本記事あるいはtwitterでのリプでお知らせください。連絡先をお知らせいただければお送りいたします。よろしくお願いいたします。

「書く」こととモチベーションの関係

 できることなら、毎日一定の時間「書く」ことをしたいと思っています。ランナーが走らないと身体がなまるように、いろいろあってしばらく書いていないと、明らかに書けなくなります。逆に毎日少しずつでも書けている場合は、アイデアが出てきやすくなったり、文がまとまりやすくなったりします。「書く」ことの回路をつないでおくことで、ことばが出てきやすくなるように思います。

 

 これは「読む」場合でもそうです。かための文章を「読む」ことを続けていないと、明らかに読めなくなります。逆に毎日少しずつでも読めている場合は、その文章の論理が辿りやすくなったり、批判的に読んだりということがしやすくなります。意外なような気もするのですが、「書く」ことの回路と「読む」ことの回路は別で、それぞれ別に風通しをよくしておかないとうまくいかない気がします。

 

 さらに、これが一番重要なのですが、「書く」ことの回路をつないでおかないと、ついつい日々のことに追われたり、別のことをやりたくなったりしてしまいます。書こうという気持ちを持ち続けるためにも、「書く」ことの回路をつないでおくことが大切です。これもふしぎなのですが、「気を散らさない」ということについては「書く」ことが大切で、「読む」ことだけではうまくいかない気がしています。インプットよりアウトプットの方がメンタル面にいい影響を与えるということがあるように思います(あくまで個人の経験則)。

 

 ただし難点は、「書く」ためには「書きたいこと」が必要なところです。「読む」ためなら、探す手間とお金をかければ「読みたいもの」がなくて困るということはありません*1。しかし「書く」ためには書くべきと自分が感じている内容、つまり「書きたいこと」が必要です。そしてある程度の量と内容の「書きたいこと」をまとめるためには、事前に「読む」ことや「調べる」ことが必要です*2。つまり、「気を散らさない」ためにはまず「書く」ことが必要なのだけれど、そのためにはまず継続的に「読む」ことや「調べる」ことが必要で、しかし「書く」の前段階として「読む」ことをしている間に全体的にモチベーションが下がり、その結果「書く」ことからに遠のき……という負のループに陥りがちです*3

 

 そういうわけでこの記事は、自分の「書く」ことの習慣化のために、「読まなくても書けること」を中心に頭のなかをまとめ直したものです。自分が「書く」ための活動なので、これを「読む」みなさまにどんな意味があるかはわかりません。個人ブログなのでたまにはこういうのも許していただければ幸いです(?)。

*1:「読みたいもの」がありすぎて困るというのはよくある状態です。というより、わたしの「読みたい本リスト」は、残りの全人生を投入してもすでに消化しきれない気がします……。

*2:論文でいうと、先行研究の調査や実際の分析です。

*3:「それなら『書きたいこと』が途切れないように、毎日『書いて、読んで』の時間を両方確保しておけばいいじゃないか」というのはごもっともなんですが……そう思っていた時期が、私にもありました……。