めらブログ

国語科の文法教育、作文教育、そのほか教育に関すること。ブログ名をすこし変えました(本名がずっと出るのがはずかしくなって。。。)

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(5)

※以下の記事の続きです。今回からやっと本番。

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(1) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(2) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(3) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(4) - 万里一空

 

3.なぜ今までの学校文法批判には効果がなかったのか?

2.で見たように、学校文法には多くの批判が重ねられてきた。しかし一方で気になるのは、これだけたくさんの批判が重ねられたにもかかわらず、なぜ70年ものあいだ学校文法を変えることができなかったのかという点である。ここからは、学校文法だけでなく、学校文法批判の側にもなにか問題があったのではないかという疑問が浮かぶ。もし学校文法批判の側にも問題があるのだとすれば、それを踏まえず同じような批判を重ねても、同じような失敗を繰り返してしまうだけである。

 

そのような視点からこれまでの学校文法批判を見直してみると、そこにはある共通点がある。それは、学校文法に「学術的な正しさ」を与えようとしているところである。活用形の名称や立て方、そして語幹と活用語尾の分析についての批判は、どれも最新の研究から見ての理論的な不備を指摘している。また、学校文法への批判は、国語教育の専門家というより、日本語学などの専門家から出されていることも前に確認した。これまでの学校文法批判には、研究上正しい内容が、教育上も適切な内容であるという前提があるように見える。

 

では、この「学術的な正しさ」によって教育内容を決めようとする姿勢に問題はないのだろうか。ここからは、「学術的正しさ」と学校文法の関係についてあらためて考えるために、2.で紹介した学校文法批判について2点の再検討を行いたい。

 

学校文法批判の再検討① 学習のためのコストの問題

批判(1)で見たように、学校文法の活用形は、6つの名称がすべての実態を表せているわけではなかった。またその名づけ方にも、「意味」と「接続」という2つの基準が混在していた。では、そもそもこのような名称はどうしてつけられたのだろうか。はじめにこの名称を考案した人物は、矛盾を含んだ未熟な活用表を作ってしまっただけなのだろうか。

 

国語学研究上、学校文法と同様の活用論が現れるのは、実は江戸時代である。江戸時代の僧・義門(1786-1843)は、『活語指南』(1844)の中で、「将然言・連用言・裁断言・連体言・已然言」という5つの活用形を立てている。「将然言」とは今日の未然形、「裁断言」とは今日の終止形、「已然言」は今日の仮定形にあたる。命令形がないことを除けば、おおむね学校文法の活用論に一致する。このような活用論について、義門は次のように述べている。

右ノ五ツノアルヤウ。将然已然始終ニ相対ヒ。連用連体前後ニ相対ヒテ。其中ナル裁断コレアラユル詞ノスワリヲサマル処ナル定格。自然ノ妙用奇々妙ナルモノ也(初巻、一ウ。本発表は坪井(2007)p.258より重引)

つまり義門は、「将然」と「已然」、「連用」と「連体」がそれぞれ対称になり、基本形としての「裁断」をその中央におくというシンメトリー(左右対称)の中で活用をとらえているのである。義門はこの様子を指して「自然ノ妙用」と呼んでいるが、これは「自然」というより(本人の意識はともかく)義門の創意工夫によるところが大きいだろう。つまりこの活用形は、単なる分析不足から生まれたのではなく、活用語尾をアイウエオ順に並べたうえで、特徴的な働きを取り出しキャッチーな名称をつけるという相当の工夫のもとで生まれているのである。この活用表にも、見るべきところが全くないわけではない。

 

たしかにこの活用表には、日本語の実態をうまく表せていないところがある。しかしここで確認しておきたいのは、活用表をより日本語の実態を表すものにすべきだという批判が、実は明治時代にも行われていた点である。大槻文彦(1847-1928)の『語法指南』(1890)は、はじめて助動詞を現在に近いかたちで立てるなど、明治中期の充実した文法研究のひとつである。しかしその活用表は、学校文法とは大きく異なる。大槻は、「用言ノ本体」(三七ページ)である裁断言が活用表の中にあるのはおかしいという理由で、表のいちばん上に位置を変える。そして「裁断言ノ下ニ「ゆくべし」ナドアリテハ、連ル所アリテ、裁断トイフ意ニ合ハズ」(同)、つまり裁断言であっても「ゆくべし」のように助動詞が続くことがあるのだから、「裁断」という名称はおかしい、「第一変化」「第二変化」……など機械的な名称にすべきだ、と述べる。その結果、大槻の活用表は次のようなものになる。

第一活用……「はなす」など。今日の終止形

第二活用……「はなす」など。今日の連体形

第三活用……「はなせ」など。今日の已然形

第四活用……「はなさ」など。今日の未然形

第五活用……「はなし」など。今日の連用形

第六活用……「はなせ」など。今日の命令形

学術的な正しさ」を優先するなら、この方針はたしかに正しい。しかし大槻のこの活用表は、その後の文法教育には受け継がれなかった。この原因の一つは、義門の表に比べて学習の「コスト」(矢澤(2010)、p.150)が大きくなってしまうところにあるだろう。コストとは、本発表では学習者にかかる知的負担のことをさす。学校文法は、たとえ不正確でも「未然形」など特徴的な名前をつけている。また、それぞれの形を直観的なアイウエオ順にしたうえで、その名称をシンメトリーにするという工夫を行っている。一方、大槻の活用表は、「第一活用」などの機械的な名称をつけたために、名称から形を再現するのにコストがかかっている。また並び順もそれ自体覚える必要があり、さらに別のコストがかかる。このような理由から、大槻の活用表は教育の文脈では受け入れられなかった。結果として学校文法は、「学術的な正しさ」を優先する大槻の活用表ではなく、厳密さには劣るがコストの低い義門の活用表を選んだのである。教育内容は、このようなコストの問題を抜きにしては考えられない。従来の学校文法批判に足りなかったのは、このコストについての目配りなのである(なお今日の学校文法は「已然形」を「仮定形」に改めてしまったために、義門の作ったシンメトリーが崩れてしまっている。このため、活用形を学習する際のコストが高くなってしまっており、これは残念な部分である)。

 

学術的な正しさ」とコストの問題は、批判(3)についても当てはまる。上で見たように、活用表は、ローマ字で書いた方が語幹と活用語尾の関係を正確に分析することができた。しかし中学校段階においては、ローマ字の習得が不完全である学習者も一定数存在する。それを考えると、ローマ字の理解を当然の前提とし、さらに語幹と活用語尾の分析をさせようとする学習は、相当コストが高いことが推測される。そこまでコストをかけて「学術的な正しさ」を追究するより、たとえ学術的には不完全でも、ひらがなのまま語幹や活用語尾の分析をした方が学習として有効であるという判断もありうる。「学術的な正しさ」とコストの問題が、ここでも現れるのである。

 

【参考文献】

大槻文彦(1890)『語法指南』小林新兵衛

坪井美樹(2007)『日本語活用体系の変遷 増訂版』笠間書院

矢澤真人(2010)「国語教育の文法と日本語教育の文法」砂川有里子、加納千恵子、一二三朋子、小野正樹編『日本語教育研究への招待』くろしお出版、pp.141-157