めらブログ

国語科の文法教育、作文教育、そのほか教育に関すること。ブログ名をすこし変えました(本名がずっと出るのがはずかしくなって。。。)

第1回「教科教育史研究会」の感想

去る2月20日東海大学斉藤仁一朗先生といっしょに、第1回「教科教育史研究会」をZoom上で開催しました。

 

sites.google.com

 

当日は15名の方にご参加いただき、とても楽しい時間を過ごせました。ここではその概要や感想を備忘録的に書いておきます。

 

開催の経緯

研究会を始めたきっかけは、昨年の年末、斉藤先生が次のようなツイートをされていたことでした。

 

 

 

これに関して、「その問題意識わかります」「教科教育史のこと考えるコミュニティがあるといいですよね」「作りたいですね、研究会とか」「あ、じゃあやります?」「やります??」という感じで盛り上がったのが、昨年の大みそか。それまでほとんど面識のなかった私のきらくな提案に、快く乗っていただいた斉藤先生にほんとうに感謝しています(わたしはいま諸事情あって鍵アカなので、議論の様子が見られない場合もありますが、だいたいこんな感じです 笑)。

 

その後、斉藤先生と何度かZoomで打ち合わせをさせていただき、研究会のコンセプトや形態、周知の方法を詰めていきました。

 

研究会のコンセプト

先のウェブサイトにもありますが、「「教科教育史」に関心がある人が緩やかに繋がり、元気づけあえる会」というものです。

 

こういうコンセプトになったひとつの理由として、教科をまたいだ教科教育史への視点があってもいいのではないか、ということがありました。教科の教育史に取り組むといっても、実際には「国語教育史」や「社会科教育史」など、特定の教科に視点をおいて研究を進めることがほとんどだと思います。ただそうなると、ひとつの問題として、自分の教科の特性や歴史性を相対化しにくい、ということが起こります。その課題を乗り超えるためにも、ほかの教科の場合はどうなのかということに目を向ける必要があるということです。またそれと別に、そもそも他教科のことを知らないと自分の教科のことも本当は語れないだろう、ということもあります。ある教科の内容は単独に決まるのではなく、他教科の内容との関連の中で決まるからです*1。そういうわけで、教科をまたいだ教科教育史について議論できるコミュニティをめざすことになりました。

 

こういうコンセプトになったもうひとつの理由は、純粋に教科教育史について語り合ったり、新たに興味を持ってもらったりするための場がほしかったということがあります。実際に研究会を開いてみても思ったのですが、教科教育史に取り組んでいるみなさんは、自分たちが「教科教育にどのように貢献できるのか?」という「引け目」があるように思います(あくまでわたしの主観なので、ちがったらごめんなさい)。研究会やその後のアフタートークの中では、「現代の教育への貢献が求められる教科教育において、歴史研究はどのように意義を語っていくか?」ということが話題になりました。実際に斉藤先生からは、話題提供の中で「(歴史研究をやっている自分たちは)マイノリティだ」というご発言もありました。このような意味で、教科教育史に取り組んでいるみなさんは、どこか「引け目」のようなものを感じているような気がします(気がするだけです。ちがったら叱ってください。笑)。ただ教科教育史をやっている皆さんは、同時に、「歴史研究には確固たる面白さや意義がある」という信念も強く持っているように思いました。このような意味で、「教科教育史っておもしろいし、こういう意義があるよね」ということをしっかり発信していける場があったほうが、教科教育史に取り組んでいる方、あるいはこれから取り組もうとしている方の背中を押すことができるのではないか、と考えました。これが、教科教育史について語り合ったり、新たに興味を持ってもらったりするためのコミュニティをめざした経緯です。

 

斉藤先生とお話をしながら、じぶんもこういった問題意識を深めて、第1回の研究会開催をめざすことになりました。

 

第1回の感想

第1回は、研究会主催の「相方」となった斉藤先生にご発表いただきました。内容はつい先日刊行された博士論文を軸に、「なぜ自分は教科教育史に取り組んでいるのか、その課題設定にあたってどんなことに悩んだのか」をざっくばらんにお話しくださったものでした。

 

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自分の発表ではないのでこれ以上の詳細は省きますが、研究会の中で議論になったのは、やはり「なぜあえて(アメリカの)社会科教育史を紐解くのか?」といったところでした。質問者の中には、ご自身も教科教育史の研究をされている方で、「なぜそのフィールドなのか?(別のフィールドではダメなのか?)」「なぜ歴史なのか(別のアプローチではダメなのか?)」といったことについて問われた経験をもとに、あなたの場合はどうなの、という質問をされている方もいました。わたしはそれを聞いて、やっぱりみなさん同じようなところに関心や問題意識があるんだな……ということを(司会をしながら)強く感じていました。

 

それに関連して、これはアフタートーク(けっきょく1時間くらい話が続きました 笑)で出た話題なのですが、「教科教育史を専門にしている研究者が、たとえば学外の授業研修などに呼ばれたとき、歴史的な観点からコメントをするか?」という問いについて、そのとき答えた方(わたし含め)の全員が「しない」という返答をしていたのが印象的でした。笑 そうだとすると、歴史研究と現代的な教育への貢献の接合点はどこにあるのか? わたしたちはどういう人たちに、どのように歴史研究を語っていくべきなのか? といったことも問題になるのだろう、という気がしています。

 

第1回の参加者は、社会、国語、理科、家庭科、思想史、教育史以外(教師教育など)、あるいは現場の先生や教育関連機関にお勤めの方まで、幅広い方々にご参加いただきました。そういった中で、上記のような課題を教科を超えて共有できたことにはきっと大きな意義があると思っています。初回からたくさんの方にお申し込みをいただき、またこういう議論ができたことは、主催であるわたしにとってもとても「元気づけ」られるものでした。

 

次回は?

こういうことを書いてきてなんですが……わたしが発表します。笑 まだウェブサイトにはアップしていませんが、3月28日(日)の14:00から、「なぜ、いま、文法教育史なのか?」というテーマでお話する予定です(Zoomミーティングを使用)。また申し込み方法など詳細な告知は後日twitterやこのブログでお知らせします。ご覧いただき、ご興味をもっていただけたらぜひご参加ください*2

 

自分としては、かなり楽しみなコミュニティになっていきそうです。参加資格はまったくありません(教科教育史研究をご専門にしていない方も歓迎です)。ご興味ある方は、ぜひお気軽にお声かけください。

 

*1:たとえば1900(明治33)年の小学校令施行規則では、「読本」の「材料」を「修身、歴史、地理、理科其ノ他生活ニ必須ナル事項」としています。国語科の内容の中に「修身」「歴史、地理」「理科」といった他教科の内容が入り込んでいます(社会的な教材や理科的な教材が含まれているのは今でもそうですね)。このような状況では、国語科の内容も他教科の内容との関係抜きには語れません。このあたりは甲斐雄一郎(2008)『国語科の成立』東洋館出版などに詳しいです。

*2:というか、前回の第1回も、このブログも含めて告知すべきだったな……どうもブログの使い方がうまくないですね……「歴史研究を語る機会」として、このブログもこれからはもうちょっと回していければと思っています。

院生・若手交流企画(秋期オンライン大会)について(10/31 6:50追記)

(※10/31 6:50追記

企画の対象に「若手教員」を追記しました。もとの書き方だと、現場に出られた先生を排除しているように見えかねなかったので……。過去の企画では、現場で実践中の先生も多くおいでくださっています。)

 

 全国大学国語教育学会第139回秋期大会(オンライン)について、もうひとつ別記事でお知らせです。

 

 こちらは参加申し込みをした学会員対象の企画になってしまうのですが、2日目午後(13:30-)に「院生・若手交流企画」というものを予定しています。これは「大学院生、若手教員、および若手研究者*1を中心に、『学会発表未満』の研究内容を交流しよう」という企画です。学会に参加し始めのころは、どうしてもすこし敷居が高く感じてしまうものですが、実際には似た立場の方が複数人いるはずです。そういった方々も、近い興味がある方どうしでディスカッションをすれば、「話を聞いて帰る」以上に得られるものがあるかもしれません。そういったきっかけを作るお手伝いができればと考えています。

 

 当日は、Zoomミーティングを用いて、関心のあるキーワードごとにブレイクアウトルームを使う形で交流できればと考えています。ホストはわたしです。参加条件も申し込みも不要ですので、ご興味のある方、ぜひふるってご参加ください。

 

修士課程の多くが教職大学院になっている中で、ひょっとすると「国語教育プロパー」として、国語科の領域や教材、歴史について議論をすることが相対的に少なくなっているかもしれません。そんななかで、こういう企画を通して本学会ともつながりをもっていただき、国語教育の分野全体が盛り上がっていけばいいな、なんてちょっと大きな(不遜な?)希望も抱いているところです。

*1:「若手」の定義は、「自分で自分を若手と思う人」です。笑 ご興味のある方みなさまウェルカムです。お気軽にご参加ください。

全国大学国語教育学会秋期オンライン大会について

 あした10月31日(土)および11月1日(日)に、第139回全国大学国語教育学会秋期大会(オンライン)が開かれます。コロナ禍の影響で、各学会の大会が対面では開催できない状況になっています。それは国語教育の分野も同様です。今回、全国大学国語教育学会としてははじめて、フルサイズの学会をオンラインで開催することになりました*1

 

 今回の大会については、わたしも実行委員のひとりとして関わらせていただいているのですが、ほんとうに魅力的な企画が多いです。そのうちの一つ、公開講座II(2日目15:00-)は、「詩の書き方は教えられるか?」というテーマのもと、ワークショップ形式で実施予定です。当日は、Zoomウェビナーを用いて「ラッキーディップ」というワークショップを行います(ワークショップは事前申し込み、すでに申し込みは〆切済)。これは、まず10行の詩を書いて、その詩を1行ずつバラバラの短冊にします。次にその短冊をまとめて袋に放り込み、10枚の短冊を取り出します。そのうえで、自分に分け与えられた10行を並びかえてまた別の詩を作る、という活動です。この方法だと、「うまくできなくても運のせいにできる」「『自分の思い』をいったん傍において、言葉そのものと向き合うことができる」といった長所があります。

 

*ラッキーディップについては、当日コーディネーターを務める軽井沢風越学園の澤田先生のブログに詳しいです。

 

askoma.info

 

 

 これだけでもすでに面白いのですが、実はこのワークショップに関連して、事前公開動画も公開されています。この動画は、当日行われるワークショップを歴史的、理論的により大きな文脈の中に位置づけるものになっています。

 

www.youtube.com

 

 たとえば鹿児島県立短期大学の竹本寛秋先生は、「詩の作り方」についての歴史的変遷について解説しています。竹本先生によれば、「詩の作り方」については詩の外形的分類を行う明治期→詩創作と内面を透明につなげる大正期(つまり詩創作の指導は不可能だとする時期)→詩を認識の方法としてとらえる昭和期(たとえば書きたいことがあってその後ことばが見つかるのではなく、ことばになった後ではじめて書きたいことがわかるとする時期)という変遷を経ています。そしてこの日行われるであろうワークショップは、このような変遷を経た昭和期以降の発想に位置づけられると述べます

 

 このように本公開講座は、国語科の教育内容としてたしかに存在する詩創作について、具体的な実践と、その実践のもつ意味合いを構造化したかたちで見ることができます。なおワークショップそのものへの参加は〆切られていますが、当日の講座の様子はYouTubeLiveにて上記チャンネルで配信予定です(事前申し込み不要)。

 

 また公開講座Iは、「国語科における「論理」教育の射程」というテーマで実施予定です。この講座は、学習指導要領において「情報の扱い方」が追加された状況をふまえて、学習者が論理を(書かれている説明的文章などから)「読み取る」だけでなく、みずから論理を「切り結ぶ」教育のあり方を明らかにすることをめざしています。打ち合わせの様子をすこし拝見したのですが、そこでは「論理」とはそもそもどういうものか、「論理」の指導とその他の領域はどのように関わりあって学習者のことばの力を伸ばしていくのか、といった点まで議論が及んでいました*2。とても刺激的な時間になりそうです。こちらの講座はZoomウェビナーを使って行います。おなじく事前申し込みは不要です(以下の実行委員会twitterのリンク内、公開講座I「ウェビナー入口」からどうぞ)。

 

 

 

 いずれも、現場で実践にあたられている先生方、これらの分野に関心がある方、とても有意義な時間になると思います。直前のお知らせですが、ぜひごらんください。

*1:前回の大会(課題研究発表のみ実施)については、こちらの記事をごらんください。

*2:あくまで打ち合わせ段階なので、当日おなじ話題が出るかはわかりませんが……。

全国大学国語教育学会大会(オンライン)について

 案の定、更新が途切れました。笑 新型コロナウイルス感染対策による課題学修や、各種対応に追われているうち7月下旬になりました。この間、研究の文脈でもいろいろあったのですが(博士論文の予備審査会と本審査会が終わるなど@zoom)、そのあたりはまたおいおい。

 

 さて、学会員の方にはご連絡が行っているかと思いますが、全国大学国語教育学会の学会通信が発送されました。

 

https://www.jtsj.org/mug4esb28-86/#_86

 

 ここに書かれていますように、次回と次々回のオンライン学会実行委員を拝命しています。ちょうど昨年度から研究部門委員も務めていたのですが、通常の大会が不可能になって大会拠点がなくなった結果、研究部門委員がオンライン大会の実行委員会も務めることになりました。思わぬ形ですが、オンライン大会の黎明期に関われるのも貴重な経験かと思っています(まだ具体的にあまり貢献できていないので、これからがんばります。。。)。はじめての試みですので、お気づきの点がありましたらお知らせいただけますと幸いです。

 

 大会情報については、実行委員会で運営しているtwitterでもお知らせしています。ぜひご覧ください。

 

 

 

学校文法の課題

 なんだかでかすぎるタイトルですが。笑 論点整理(というかブログ執筆の練習)もかねてまとめたいと思います。この件についてくわしい方には「何をいまさら」と言われそうな話ですが……。

 

 いまの中学校国語科で教えられている文法体系、いわゆる学校文法*1には、大きく以下の3つの課題があります。

 

【課題1】他の領域とのつながりが不明瞭

 学校文法ではたとえば「未然・連用・終止・連体・仮定・命令」といった「活用形」を教えます(場合によっては暗記します)。このような文法教育が、子どもの「書くこと」「読むこと」あるいは「話すこと・聞くこと」にどう生きるのかはよくわかっていません。たとえば子どもの作文には、主述のねじれ、だらだら文(主語と述語が離れすぎる文)、修飾語と被修飾語の非対応、といった文法上の課題が表れます。このような課題を緩和するために、「未然、連用……」といった事項を教えることがどう役立つかは不明瞭です*2。もっといえば、そもそも作文の中にどれくらい活用の書き誤りが出てきているのかもわかりません*3。もし文法を子どもの作文に生きるものにしようとするのであれば、子どもがどんな書き誤りをしているのかを明らかにしたうえで、それらの事項に対応した内容に変えていく必要があります。

 

【課題2】そもそも文法を何のために教えるのか(目的)が不明瞭

 課題1で述べたように、学校文法の内容はかならずしも他の領域とつながりを持っていません。この意味で、いまの文法教育の内容には課題があります。しかしそもそも文法教育の目的、つまり国語科では文法を何のために教えるのかということについても、かならずしも合意がとれていないように見えます。

 もし文法を教える目的が「言語活動に生かすため」ということにあるとしたら、先に述べたように、文法と作文などが関連をもてていないという課題について乗り越える必要があります。一方、もし目的が「言葉に対する分析力(メタ言語能力)を磨くため」ということにあるとしたら、たとえば「歩かない、歩きます……」にあたるような活用表を自分で書いてみて、それと学校文法の活用表を見比べてみる、といった活動も一定の意味をもつかもしれません。このような目的設定なら、今の学校文法は結果的に社会に浸透しているし、見比べる対象としては十分じゃないか、という議論もありえます。

  ここからいえることは、学校文法について、教育内容以前にそもそもどういう教育目的を設定するのかという議論が必要だということです。この議論をしないと、目指すゴールがわからないために内容の改善もできません*4

 

 【課題3】けっきょく高校入試で橋本文法が出てしまう

 いろいろ書いてきましたが、たぶんこれがもっとも身近かつ最大の問題です。どんなに中学校の先生方が文法教育の内容や方法をブラッシュアップしたとしても、けっきょく高校入試で「歩きますの『歩き』の活用はなんですか」といった問題が出てしまうと、先生方は「未然、連用……」そのものを教えざるをえません。こうなると、「学校文法教える」のではなく「学校文法教える」状態になってしまいます。ここでは、「言語活動に生かすため」という目的も、「言葉に対する分析力を磨くため」という目的も追いやられ、「学校文法そのもの」を学ぶことが目的になってしまいます。課題2とも連動しますが、文法教育をなんのために行うのか、そのためにはどんな内容が有効なのか、ということをもう一度考え直す必要があります。

 

 つけ加えれば、中学校では来年度から施行される新学習指導要領との関係からも、文法教育の見直しが必要になる可能性があります。新学習指導要領が、育成を目指すべき資質・能力(三つの柱)として(1)知識及び技能、(2)思考力、判断力、表現力等、(3)学びに向かう力、人間性等をあげているのはご存じかと思います。このうち文法は(1)知識及び技能に当てはまりますが、この(1)知識及び技能と、(2)思考力・判断力・表現力等との関係について、学習指導要領解説は次のように述べています。

 

この〔知識及び技能〕に示されている言葉の特徴や使い方などの「知識及び技能」は、個別の事実的な知識や一定の手順のことのみを指しているのではない。国語で理解したり表現したりする様々な場面の中で生きて働く「知識及び技能」として身に付けるために、思考・判断し表現することを通じて育成を図ることが求められるなど、「知識及び技能」と「思考力、判断力、表現力等」は、相互に関連し合いながら育成される必要がある。

文部科学省(2018)『中学校学習指導要領解説 国語編』東洋館出版、pp.7-8

 

この箇所には、「知識及び技能」は「思考・判断し表現することを通じて」育成が求められると書かれています。またそのことによって、「知識及び技能」が「様々な場面の中で生きて働く」ことをめざすと書かれています。ここから、文法を含めた「知識及び技能」について、次の2つが問題になりえます。

 

(a)「思考力、判断力、表現力等」の指導を通じて「知識及び技能」を指導する、というとき、具体的にどのような教育方法が想定されるのか。たとえば「知識及び技能」として「自分たちで活用表を作ってみる」といった活動をしたとき、国語科の「思考力、判断力、表現力等(=話すこと・聞くこと、書くこと、読むこと)」とはあまり関連をもっていないようにも見えます。このとき、「自分たちで活用表を作ってみる」といった活動は国語科の教育として認められない、ということになるのでしょうか。

 

(b)様々な場面の中で生きて働く「知識及び技能」として、どのような目標、あるいは内容が想定されるのか。たとえば、「言葉に対する分析力を磨くため」という目的は、「様々な場面の中で生きて働く」という目標に合致しているといえるのでしょうか。もしいえないとすれば、新学習指導要領の規定に合わないという理由で、これらの目的を退けてしまってよいものでしょうか。

 

 個人的には「新学習指導要領が○○になっているから」という理由で、今までの蓄積がどこかに追いやられ、いつのまにか内容が尻すぼみしている、ということがないようにあってほしいと思います。このあたりの学習指導要領の理解については、書き手の理解不足の可能性も高いので、もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示ください。。。

*1:英語科には英語科の学校文法があるので、両者を区別するために「学校国文法」「学校英文法」と明記することもあります。ここでは前者を指して「学校文法」といいます。

*2:Graham and Perin(2007)は、「伝統的な文法指導」つまり子どもの言語活動と関係なく、文法を単独で教えるような指導は、かえって子どもの作文活動に負の効果をもたらすと述べています。参照→Graham, Steve and Perin, Dolores(2007). Writing Next. Alliance For Excellent Education.

*3:外国とつながりのある子どもや障害をもつ子どもについては、文法上の書き誤りの出方が変わる可能性もありますが、そのときに学校文法の「未然、連用……」がどのくらい役立つかはわかりません。個人的には、あまり多くの期待はできないのではないかと思います。

*4:学校文法への批判について、その文法論としての内容の矛盾を指摘するものが多くあります。活用論でいえば、なぜ未然形という「形」に「歩く」「歩こう」という2つの形があるのか、なぜ未然形は「未だ然らず」という「意味」による名づけなのに、連用形は「用言に連なる」という「接続」による名づけなのか、といった指摘です。これは学校文法を学問的に適切なものにするために必要な指摘です。が、わたしはこのような議論の前に、まず本文で述べたような「文法教育の目的は何か」という課題に取り組むべきと考えます。この議論を抜きにしてしまうと、どんなに文法論としての整合性がとれていても、また別の暗記の対象を生んでしまう可能性が高いからです。内容上の整合性は、言語活動との関連や目的との関連を担保したうえで論じるべきだと思います。

しれっと久々の更新

人は5年もブログを放置したうえで、しれっと更新することができるのだ、というモデルケースです(遠い目)

 

ついったーのほうで「2020年はブログを更新してアウトリーチ活動をしたいですねえ(キリッ」みたいなことを言いながら、長らく放置しておりました。しかも他の方の研究に対するコメントという他力本願っぷり。今年もいろいろ余裕はなさそうですが、書けるときは書いていきたいと思います。気長にご覧いただければ幸いです。。。

「対話型模擬授業検討会Q&A」について

渡辺貴裕先生の、「対話型模擬授業検討会Q&A」を拝読。
 
 
勤務校の教育法の講義で、まがりなりにも「対話型模擬授業検討会」をめざしてリフレクションしてみたのだけど、どうしても学生がすぐ「~すればよかったのに」という改善策を言おうとしてしまうのに悩んでいた。ただ、より長い時間取り組んでいる学習者たち(しかも学部生ではなく院生たち)でも、「児童役としてこう感じた」「なぜ教師役は~としようと思ったのか」という発想に立つのが容易ではないことに気づけた。自分の不徳も感じながら、来年度はもっと「場にボールを投げる」学生が増えるような支援ができるといいと思う。
 
もう一つ興味深いと思ったのが、この取り組みが授業としてのリフレクションのみならず、参加者の対話活動のリフレクションにもなっていること(ホワイトボードの使い方に関するふりかえりなど)。これは言葉の教育者を育てるための授業において、かなり大事なポイントなのではないかと思う。授業への参加者が、よりよい授業者のみならず、よりよい言葉の使い手になるためにも、もっと充実したリフレクションの機会を用意したいと思う。