めらブログ

国語科の文法教育、作文教育、そのほか教育に関すること。ブログ名をすこし変えました(本名がずっと出るのがはずかしくなって。。。)

日本語学会シンポジウム「日本語学と国語教育学との接点」質問への回答

 10月29日(日)の日本語学会2023年度秋季大会において、シンポジウム「日本語学と国語教育学との接点」に登壇しました。当日ご参加くださったみなさま、他の登壇者のみなさま、運営委員としてご尽力くださったみなさま、本当にありがとうございました。自分の力不足で十分言い尽くせなかったことも多いのですが、本当に貴重な機会になりました。

 

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 後半のディスカッションの内容については、やんわりとこんな議論がしたいね、ということを登壇者間で打ち合わせはいたのですが、矢澤先生の「きょうの発表で国語教育の人が文法教育やりたい、って説得されると思う?」というのは(わたしの記憶では)打ち合わせになかったです。笑 いや、まったくもって図星なのですが……。歴史研究のジレンマとして、「歴史的にこうだった」ということと「未来をこうしていきたい」のあいだの接続がうまくいかない、というのがあります。わたしとしては「歴史と現在にこういう連なりがある(からこのへんが問題である)」という話にも十分価値があると思うのですが、実際に教育に貢献しようと思ったら、さらにもう一歩が必要ですよね。矢澤先生に「で、どうしたいの??」と発破をかけられて、その話ができたのはよかったです(他力本願)。今後は、後者へのジャンプをもっと積極的に考えていかねばなあ……。

 

 さて、その足がかりになるかはわかりませんが、当日わたし宛にいただいた質疑のうち、お答えできなかったものについて非公式に回答します。公開されることを想定していない方もいらっしゃると思いますので、お名前は伏せたうえで、質問の内容も大幅に要約して示します。またわたしの名前にチェックを入れていただいていたものの、内容的にほかの先生に深く関わると判断したものは回答していません。またこれはわたしの非公式な対応ですので、ほかの登壇者から同様の回答があるとはかぎりません。ご了承ください。

 

(1)「メタ言語意識」の文法教育史上での取り扱いと、今後の方向性は。

 わたしがよく見ている戦前期についていえば、あまり盛んではなかったように思います。古くさかのぼれば明治期から、言語を観察することや、それを通して論理的思考力を育成することの重要性を指摘する論者はいました。橋本進吉も、文法教育の目的を「出来るだけ明瞭で徹底した国文法の知識」を得ることにおきます(『新文典』)。ただこれがどれほど今日の「メタ言語意識」に通ずるものかはわかりません(あまり通じなさそう)。

 それ以降もメタ言語意識についての指摘は一定程度続けられてきましたが、実際の教育方法はうまく定まっていない状態です。これは発表中に述べたように、方法だけの問題ではなく、そもそも目的(文法によってどんな力がつくのか、文法を学ぶことでどんなよさがあるのか)がうまく定まっていないのが問題ではないかと考えています。

 今後の方向性としては、文法を直接的に「書くこと」「読むこと」などの言語活動に生かそうとするもの(実用派)と、メタ言語について思考し説明することを重視するもの(知識派)があると思います。わたしはまず実際のニーズから前者に取り組むべきと考えていますが、後者についても無視するべきではないと思います(このことは発表の中でもふれました)。

 

(2)議論について、「文法教育の課題」と「学校文法の課題」が錯綜しているのでは。

 わたしとしては、つねに「文法教育の課題」について論じたいと思っています。つまり現状の学校文法(橋本文法を基盤においた体系)の課題を指摘するだけではなく、そもそも学校における文法教育がどのような課題をもっているかについて論じたいと思っています(これを発表中は「一般名詞としての学校文法」の課題と述べました)。

 わたしが文法教育史を見るとき注目するのは、その時代にはどのような目的のもと、どのような内容が教えられようとしたのかです。そのうえで、当時のそれらにどのような課題があった(と見なされていたか)を見ます。まずは現代の価値判断をなるべく入れずに、このような「当時の枠組み」を見ようとします。それと同様の方法で「今日の枠組み」を見ると、両者に類同性や相違点が見えます。これによって「今日の枠組み」を相対化し、自明にしている価値観などを明らかにすることをめざします。

 今回の発表でも、学会設立期「当時の枠組み」を(粗いものではありますが)記述しようとしました。そうすると「具体的な目的の不明瞭さ」「言語活動に関する研究の不足」という二つの課題が見出だせました。発表の中で述べたように、これらの課題は、「今日の課題」としても共通していると考えられます。そうだとすれば、これらは学会設立期(機能文法期)から今日まで、両学会が取り組みつつも解決できなかった課題であり、あらためて接点を模索する入り口になるのではないか、というのが発表の主張です。それをもとに、「当時」と「今日」に共通する課題の解決策として、後半に述べたような提案を行いました。

 ただ議論としてはまだ粗いものであるため、本当に類同性があるといえるのか、またわたしの提案が本当にその課題に答えるものになっているかは、また別の検討が必要だとは思います(前述のとおり、「歴史をもとに未来の話をする」ことのむずかしさを感じながら発表していました)。

 

(3)言語事項を「取り立て指導」としてまとめることの弊害は。

 それが新たな暗記の対象となってしまう懸念をぬぐえない点です。仮に橋本文法を取り下げても、別の「文法学」を提示した時点で、「その文法学の習得そのもの」が目標になってしまう懸念があります。わたしとしては、橋本文法か別の体系かという内容の問題ではなく、何のために文法を教えるのかという目的の問題だと考えています。

 他方、まったく「文法学」のない「文法」の指導はありません。理想としては、「読むための文法事項」「書くための文法事項」……などの体系を作り、体系間のコストにも配慮しつつ、全体として示すというものがあります。倉澤栄吉は、文法について学術的な体系だけではなく「文法指導の体系」が必要と述べました。上の提案はこの一つの具体例と考えています。

 

(4)言語活動に関する蓄積はどうすれば増えるか。

 学習者の書いた文章、学習者の読む文章を対象とした言語研究を進めることだと思います。一例をあげると、国語教科書において比喩や対比といったレトリックがどこにどのように出てくるのか、そこで学習者がどのくらいつまづいているのかについて、体系的なデータはありません。もしこれらの事項がよむことのハードルになっているとしたら、現状を知り、なんらかの解決策を考える必要があります。もちろん文章には結束性がありますので、語彙やレトリックをコントロールするだけでなく、その状況モデルも重視すべきです。それでも、教科書の言葉の現状について語る言葉がさらに必要ではないかと考えます。

 

(5)変化する社会や言語と、規範の習得を目指す国語教育との衝突を、どのように回避・折衷できるか。

 規範を「従うべきもの」と見るのではなく、「うまく付き合っていくもの」と見るとよいのではないかと考えています。他の登壇者の発表にも話題に出た「全然」という語でいえば、「『全然よい』といった表現は不適切だから使わない方がよい」というのが「従う」立場です。これに対し「『全然』について、世代間でどういう認識の違いがあるのか」「それを受けて、これから自分はこの表現をどう使っていきたいか」(たとえば、仲間内ではいいが、外の関係では避けたほうがよい表現かもしれない、など)を考えていくのが「うまく付き合っていく」立場です。

 言語には一定の規範がある以上、「なんでもいい」という指導は無責任です。同時に、言語は一定の変化をしていく以上、自らの規範に閉じこもり対話を拒否する言語観も問題です。実社会で生きていくうえでいちばん有効なのは、お互いの規範をすり合わせながら、うまくコミュニケーションをとっていくしなやかさだと思います。このようなしなやかさを育てる指導をすることが、教員の手を離れてからも学習者が豊かな言語生活を送る一助になると思います。

 

(6)文法教育の目的は、多様な子供達が協働して活動する際に、その活動を支えるメタ言語となり得ることにあるか。

 はい、そうです。自分の言語活動を励ましたり、他者との言語活動を豊かにしたりするものになるとよいと思っています。このようなメタ言語意識は、異なる言語の話者に対しても開かれたものになってほしいとも思っています。

 問題なのは、その具体的な内容が見えない、という100年越しの「根の深い課題」にどう答えるか、ということなのですが……このあたりは、みなさまのお知恵もいただけましたら幸いです……。