学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(3)
※以下の記事の続きです。
学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(1) - 万里一空
学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(2) - 万里一空
活用表への批判(2) そもそも活用形は6つでいいのか
また名前以前の問題として、そもそも立てる活用形の数が6つでいいのかという批判がある。「活用形」というからには、1つの名前に対し、対応する1つの形があることが想定される。しかし未然形を見てみると、「話さ(ない)」や「話そ(う)」というように、「未然形」の中に2つの異なる「形」が存在する。これは別々の活用形に分けて書くべきではないのか。
また終止形と連体形を見てみると、すべての動詞の「形」が同じになっていることがわかる。たとえば「話す」は終止形も連体形も「話す」であるし、「聞く」はどちらも「聞く」である。上の未然形の場合とは逆に、同じ「形」であるものがわざわざ別の活用形として立てられているのである。すべての動詞について終止形と連用形の「形」が同じだとしたら、わざわざ別の活用形に分ける意味はどこにあるのか。
このように、活用形の立て方については異なる「形」を一つの活用形にまとめたり、逆に同じ「形」を異なる活用形に分けたりしているという問題がある。
活用表への批判(3) 語幹の決め方がおかしい
活用への最後の批判は、「語幹」と「活用語尾」の決め方がおかしいというものである。教科書の説明によれば、語幹とは「形の変わらない部分」、活用語尾とは「そのあとの形が変わる部分」である(『伝え合う言葉 中学国語2』教育出版、p.230)。「話す」であれば、「話(はな)」という漢字の部分はすべての活用形で共通であるため、語幹ということになる。そしてそれより後の「さ・し・す・せ・そ」の部分が活用語尾、ということになる。
しかし表をよく見ると、「見る」「来る」「する」は語幹が「○」、つまり語幹が「ない」ということになっている。一方で「見る」の活用語尾の欄を見てみると、すべての活用形の中に「み」という音がある。語幹が「形の変わらない部分」であれば、「見る」の語幹は「み」ではないのか。なぜ「み」が、活用語尾に入れられているのか。
この点について、教科書は、もし「み」を語幹にしてしまうと「未然形と連用形の活用語尾がなくなってしまう」(同上)ためだと説明している。つまりこの教科書は、すべての活用形に活用語尾を書きこむことを優先して、「形の変わらない部分」であってもそれを活用語尾として扱う判断をしたのである(同様の措置は「伝える」でも行われている。形が変わっていない「え」が、すべての形で活用語尾におかれている)。
しかしそうすると、今度は「話す」においては「形の変わらない部分」という基準で語幹を決め、「見る」においては「形の変わらない部分よりひとつ前の部分」という基準で語幹を決める(この場合語幹なし)という、基準の不一致(ダブルスタンダード)が起きてしまう。ダブルスタンダードも、文法論の説明としては避けた方がよい。
このように、語幹と活用語尾をどのように決めるのかについても、学校文法には理論上の不備があるのである。