めらブログ

国語科の文法教育、作文教育、そのほか教育に関すること。ブログ名をすこし変えました(本名がずっと出るのがはずかしくなって。。。)

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(6)

※バタバタしているうちに更新を忘れていました。このまま放置もなんなので終わりまで貼っておきます。以下の記事の続きです。

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(1) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(2) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(3) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(4) - 万里一空

学校文法と、これまでの学校文法批判の問題点(5) - 万里一空

 

学校文法批判の再検討②  文語文法との関係

  学校文法への批判(2)では、学校文法の活用論が、「話」と「話」という別々の「形」を未然形にまとめていたり、「話」という同じ「形」を終止形と連体形に分けていたりする問題を指摘した。では、学校文法はなぜこんな説明をしているのだろうか。この点について議論するためには、学校文法の活用表が作られるプロセスを確認する必要がある。

 

  明治期の日本は、まだ書きことばと話しことばが一致しない状態だった。つまり、書くときには「〜けり」「〜ざるべからず」「〜候」などの文語文法にのっとる一方、話すときには、現在と似た口語文法にのっとっていた。このような状況では、自然に習得した口語とは別に、読んだり書いたりするための文語文法を学ぶ必要がある。そのため、明治期の文法教育は、文語文法を中心に進められていた。

 

  しかし大正期に入ると、口語の研究の進展とともに口語を扱う文法教科書が現れる。ところがそこでも、それまでの基本だった文語文法をもとにして、口語文法をつけ加えるという説明の仕方がとられた。たとえば冨山房編輯部(大正15)『最新日本文典』は、「動詞の活用一覧表」として、「文語」の下に「口語」を付属させたうえで、共通のワクを用いている(pp.80-81)。ここからは、文語の活用表をもとに口語の活用表が作られてきたことがわかる。もちろんこれについても、「文語文法との関わりを重視するあまり、口語の分析をゆがめてよいのか」という批判があるだろう。たしかに、学校文法を習っていない学習者が、「話さ」と「話そ」を自ら一つの活用形にまとめる可能性はほぼゼロだろう。

 

  しかし一方で難しいのは、口語文法と文語文法をまったく異なる体系にしてしまうのも、学習者にとってコストが高い学習になってしまうのではないかという点である。たとえば、鈴木重幸(1972)は現代の口語の「文法的な面」を「正当」に扱うために、現在や過去などのテンス(時制)を示すことが必要だとした。そのうえで、テンスをふまえた独自の活用表を提案した(p.241)。

 

表4 鈴木重幸(1972)における現代の口語の説明を重視した活用表

 

普通体

ていねい体

 

断定

推量

断定

推量

 

肯定

否定

肯定

否定

肯定

否定

肯定

否定

現在未来

はなす

はなさない

はなすだろう

はなさないだろう

(はなすまい)

はなします

はなしません

はなすでしょう

はなさないでしょう

過去

はなした

はなさなかった

はなしただろう

はなしたろう

はなさなかっただろう

はなさなかったろう

はなしました

はなしませんでした

はなしたでしょう

はなさなかったでしょう

(鈴木(1972)、p.244をもとに作成)

 

たしかに、このような表であれば、口語の実態をより詳細に表現できる。しかし一方で、このような活用表を中学校で学習したあと、高校であらためて「未然・連用…」という文語の活用表を学習するのは、相当コストが高いのではないかという懸念も生まれる。国語教育は、口語だけでなく、文語までも学習内容に含めている。現代における「学術的な正しさ」だけではなく、文語文法への接続についても無視することはできない。

 

ここで問題になるのは、日常の言語を反映することが求められる口語文法と、より深い言語経験を培うための文語文法のあいだで、どこまで口語文法が文語文法に歩み寄るべきかという文法教育観の問題である。これはあまりに大きな問題であるため、現在の発表者には簡単に答えを出すことができない。しかし現時点では、すでに学校文法が広く浸透している(国語辞書の語釈にも一般的に使われている)点から見ても、まったく別の体系を打ち出すより、学校文法をマイナーチェンジしてより使いやすいものにしていく方が現実的であると考えている。再度確認しておきたいのは、学校文法については口語における「学術的な正しさ」だけではなく、文語文法に対する接続もふまえなければならないという点である。

 

 ここまで見てきたように、従来の学校文法批判には、①「学術的な正しさ」だけを考え、学習のコストを考えていない、②口語における「学術的な正しさ」だけを考え、文語文法との接続を考えていない、という2つの問題がある。文法にかぎらず、「学術的な正しさ」だけを要求しても、教育の文脈で受け入れられないのは当然のことだろう。学校文法に問題が残ることは論をまたないが、「学術的な正しさ」以外の要素も考えていかなければ、有効な提案をすることはできないのである。